京都市立芸術大学大学院美術研究科
デザイン学特論 ゲスト講義シリーズ
プールリバー

福尾匠《制作と鑑賞の非対称性について:ドゥルーズ 、フーコー、デリダ:展評を書こう!》2019/6/11(火)

講師:

福尾匠

タイトル:

制作と鑑賞の非対称性について:ドゥルーズ 、フーコー、デリダ:展評を書こう!

日時:

2019/6/11(火) 13:00-14:30

場所:

中央棟3階 L11講義室

略歴:

1992年生。横浜国立大学博士後期課程、日本学術振興会特別研究員。現代フランス哲学、芸術学、批評。著書に『眼がスクリーンになるとき——ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』(フィルムアート社、2018年)。

https://twitter.com/tweetingtakumi

http://scknglmn.hatenablog.com/entry/2017/03/03/075344

以下、ネット上で読める福尾匠さんに関するリンク集です。
履修する学生は目を通しておいて下さい。


映画論、映像論、映像文化論、映像メディア論をあつかう書物は決まって、われわれがいかに無数のイメージに囲まれて生活しているか意識するよううながすことから始まる。しかし、現在われわれを取り巻くイメージは、われわれにおのれを見せようとしているのだろうか。むしろ現代のイメージは、それを見ずに済ませてもらうために躍起になっていないだろうか。われわれはイメージを見るかわりに、「消費」を、「コミュニケーション」を、「インタラクション」をひっきりなしに要求されている。

眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』 | ためし読み 福尾匠

美術の展示を見るといつもぐったりと疲れてしまう。
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鑑賞は決断の連続であり、作品をどこから見るのか、どれくらい見て立ち去るのか、何かを見逃してはいまいかと、文字どおり後ろ髪を引かれながらわれわれは次の作品に向きなおる。
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私は気づくと展示=芸術のなかにいる。私は気づくと展示=芸術の外にいる。しかし展示空間を閉じることと芸術を閉じることは必ずしも一致しないはずだ。
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しかしすくなくとも批評は、私は気づくと展示の外にいたと言うだけでは済まされないだろう。私はこの展示の落とし所を展示空間の外にずらすことができただろうか。鑑賞者一般として疲労をいたわられるのでも、私の疲労と私の鑑賞を一致させるのでもなく、疲労のあとで再度「私」を展示空間に放り込み、その敷居をまたいだ遅れ——話が前後する——において展示空間を傾け均衡を崩し、その外に落とし所を引きずり出すことができただろうか。

映像、テキスト、水、構造物ー重層的な空間がおりなす体験とは。福尾匠評 大岩雄典「スローアクター」展|美術手帖ウェブサイト/レビュー欄

「福尾匠さんに5時間連続ドゥルーズ講義をしていただきます。」

福尾匠講義「5時間でわかるドゥルーズ『シネマ』」:クロニクル、クロニクル!

板に広がる微細な格子状の肌理が支持体のものではなくプロジェクターのピクセルであることに気づくのは、手に近寄った私の影がそれを隠したときだ。
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見知らぬ住宅街で漂ってくる夕飯の匂いのような非人称的な親しさ
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始まったとたんに終わるタイトルとしての時間ではなく、前後の文を想定しうる文章としての時間
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かたちとしては呼びかけや命令や指示であるのにもかかわらず、言葉はそれらの機能を果たさず、宛先に届くことなく落下する。
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そのとき初めて、「僕ら」をどこに位置づけるべきかが見えてくる。テーブルを挟んで「私」と「あなた」を交換し続ける発話者の側ではなく、彼らの言葉が落下し、彼らの手やマグカップが休むテーブルクロスの上にこそ、「僕ら」は、それらと並んで置かれている。

時間と記憶を浮かび上がらせる、映像インスタレーション展。福尾匠評 リー・キット「僕らはもっと繊細だった。」|美術手帖ウェブサイト/レビュー欄

すると写真はパンクチュアルに、時間とともに生長するブロックとしての宇宙のスライスのどこかに画鋲で留められているのだということになるだろう。
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一定のリズムでスキャンを繰り返すコピー機のスキャナに、忙しく雑誌の切り抜きや文房具や角材を乗せたりどかしたりし、そうした対象からなかば偶然に剥ぎ取られた皮膜を提示する。この剥ぎ取りと固定がパンクチュエーションとしての写真であるとするなら、迫の映像はいわば「ディスパンクチュエーション」をこととするのだ。面を刺しとどめていた針を抜き、その剥がれにおいて遡行的にその面が「写真」であったことを暴露すること。画鋲を抜いてみて剥がれたらそれは写真なのだ。この、ともすれば「おいしかったらそれはチャーハンなのだ」というくらい不条理になりかねない逆転にこそ、映像だけが強いることのできる写真への反省性があるのではないだろうか。

映像の持続性と、写真への反省性。 福尾匠が見た、迫鉄平「FLIM」展|美術手帖ウェブサイト/レビュー欄

アクソノメトリーには決して描かれることのない空

プロジェクション(なき)マッピングあるいは建てることからの撤退


企画構成:砂山太一