Kyoto City University of Arts

Advanced Design Studies

PoolRiver

プールリバー


#5

川勝真一

リサーチとプロジェクトのおいしい関係について

//開催日時:

2018/6/14(木)

13:00-14:30

//開催場所:

中央棟3階 L1講義室

//備考:

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//略歴:

川勝真一
RADディレクター/建築リサーチャー。京都工芸繊維大学大学院博士後期課程在籍。京都造形芸術大学および京都精華大学非常勤講師。
2008年に建築的領域の可能性をリサーチするインディペンデントプロジェクトRAD(Research for ArchitecturalDomain)を設立。建築の展覧会キュレーション、市民参加型の改修ワークショップの企画運営、レクチャーイベントの実施、行政への都市利用提案などの実践を通した、建築と社会の関わり方、そして建築家の役割についてのリサーチをおこなっている。


//以下、ご登壇いただく 川勝真一さんに関連するテキストの引用です。
//聴講する学生さんは事前に読んで予習をお願いいたします。

私たち人間も世界を構成する小さな部分だと感じると同時に、圧倒的な実感として私がなくなれば世界もまた消滅してしまうのだとしたら、世界もまた私を構成している部分でしかないと考えることもできる。
大きな「部分」と小さな「全体」
地域の固有性としての「らしさ」、もしくは外部の視点によって再発見される地域資源。こうしたリージョナルなものへの関心は、グローバリゼーションという 世界を単一のシステムに置き換えようとする動きへの反動としてと同時に、あらゆるものを商品として流通させようという動きと連動しつつ進められてきた。「らしさ」や地域資源をわかりやすく記号化し、消費可能なフォーマットへと加工する。と同時に、そのイメージがあるべき姿として理想化され、現実とは裏腹に記号化された地域性が強化される。その行く末をイメージするならば「テーマパーク」と言わざるをえない状況が各地で生まれている。 一方で、生態系という表現にはこの記号化された地域性とは異なる、より有機的でしなやかな地域との関係の取り方が示唆される。自然環境であれ社会システムであれ、現在ではその持続可能性を考える上で生態系という観点から逃れることは難しい。そして、我々自身もこの生態系の一部として、その内側に生きているということも忘れてはならないだろう。本来、生態系そのものには 良い悪いといった人間的な価値判断がない。とすれば、すぐに誰とでもつながり生み出せる現代は、ある意味でこの生態系が、これまでと異なる形で強化されているとも言える。 これらの「しるし」は、アイデンティティを強化し、失われつつある人々の絆や記憶を「らしさ」として位置づけるような地域性ではなく、表層的な現実の背後にあって、この場所を成り立たせている根源的な諸条件、もしくは存在の確かな手触りと呼ぶべきものを提示する。それによって、己の生きるフィールドを今自らも生きている生態系の外側から見つめ、自らが生きるその場所の諸条件を捉 え直すことが可能になる。そこから、一人一人が思考し実践を積み重ねていくことによって、おそらく生態系は初めて動的なものとして、豊かな多様性を受け入れ出すのではないだろうか。
生態系の外側に立つ
作品性にある種の総量みたいなものがあるとすれば、一昔前は形式性なり全体のコンセプトとして大きく割り振られていたのが、解像度が上がって細分化されたことと、割り振るコンテクストの幅が広がっているのかなと思います。強度の総量が下がったとかそういうことではなく単に分布が変化したのではないか。 ハッキングというのは社会の既成に対して新たなプロトタイプを示すことでもあるのではないでしょうか。現状とは異なる仕組みや状況を局所的にでも実現しようとするときに、境界面で「摩擦」が生じると思います。それをそのまま提示するような建築プロジェクトに作品性を感じています。一方、それが完全に社会のシステムとしてリアライズされたときに、作品との関係のなかでどう扱うかという議論はあるように思います。
座談会: システムの上書きから作品性は生まれるか?
「日常」とは生きることの切実さと実感を伴った時間と空間だ。誰かによって計画されるものでもなければ、他者による語りの中に、もしくはイメージとして描き出せるものではない。 その時、状況への適切な理解の上に、身体(切実さ)が生み出すデザイン(美しさ)がどのように結実するのだろうか。
美と実用が生み出す緊張感
建築展が示す内容が様式・造形原理から身体性・場所性へと移行するなかで、展示方法も模型と図版からインスタレーション(空間体験)へと変化したように、ポスト震災における諸実践における展示内容とその方法とはいかなるものとして考えることができるだろうか。 空間のなかに「生」そのものの形式を書き込むドキュメンテーションは、まずもって諸実践のなかで産出される関係性の質や構造そのものを、展示空間のなかで実現させることなのかもしれない。「生」そのものが建築(芸術)であるポスト震災における展示は、単にその「生」を指し示す記録、一方的な出来事の証言を語る場ではなく、その空間に書き込まれた「生」の形式を読み取り解釈し、評価することによって成立する。この時、展覧会は、まさにひとつの「生」として、それ自体が相互的なプロセスの場へと拡張していく。
生の形式としての建築展示

//ビデオ・アーカイブです。
//@kcua.ac.jpのアカウントのみで視聴可能です。

〜〜準備中〜〜


//聴講生によるコメントのアーカイブです。

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