Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiverプールリバー
#31
村上由鶴
「ノンガターレーン」
//開催日時:
2023/10/27(金)
16:30-18:00
//開催場所:
//略歴:
1991年埼玉県出身。日本大学芸術学部写真学科を卒業し、東京工業大学大学院修士課程で美学と現代アートを学ぶ。日本大学芸術学部写真学科助手を経て、東京工業大学大学院環境・社会理工学院博士後期課程在籍中 (伊藤亜紗研究室)。専門は写真の美学。2023年8月に単著『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社)を刊行。POPEYE WEB「おとといまでのわたしのための写真論」、The Fashion Post「きょうのイメージ文化論」、幻冬舎plus「現代アートは本当にわからないのか?」での連載のほか、写真、現代美術、ファッションイメージ等について雑誌やウェブメディアに寄稿。
//以下、ご登壇いただく 村上由鶴さんに関連するテキストの引用です。
//聴講する学生さんは事前に読んで予習をお願いいたします。
私にとって美術作品について語ることは、作品が持つエッセンスを「共有可能なもの」にする作業です。丁寧な、親切なものにする。噛み砕く。そういうニュアンスですね。子ども時代、ボーリングをするとき、球がガーターにならないようにバーを出すことがありましたよね。私にとっての批評をなにかにたとえるなら、そのガーター防止装置のイメージです。
https://store.tomorrowland.co.jp/topics/detail/?article_id=740355
代田橋の書店「flotsambooks」の近くで味噌ラーメンを食べたあと
https://popeyemagazine.jp/post-87251/
当事者が置かれているシークバーがない、終わりが見えない状況
https://fashionpost.jp/journal/todays-study/213638
確かに、そもそもおもしろがり方など、誰も教えてくれなかった。《はじまるよ!美術館》の冒頭文の言葉を借りるならば、「ピカソ」のなにをわかっていれば「わかる」ことになるのかも、誰も教えてくれなかった。社会や他人の承認を得ることが正しさの裏付けだったし、とくにここ日本では批判されるような言動はしないことが美徳だったかもしれない。そうしておとなになるうちに多くのこどもたちは、「おもしろがる」ことを忘れた。
https://asaito.com/lab/2015/08/post_15.php
「目の山がこちらを見ている」という経験は、写真が透明なメディウムであり物質でもあるから可能になったもの
https://imaonline.jp/articles/archive/20210503ima35-2/#page-1
物を撮る撮影のことを「ブツ撮り」と言いますが、まさにここでは女性が「ブツ」にされており、「撮る」ことや「描く」ことを実践する主体としては異性愛者の男性が想定されていました。むしろ「異性愛者の男性しか想定されていなかった」といってもいいほどです(このような状態を男性中心主義と言います)。
https://popeyemagazine.jp/post-148075/
このように、写真家とは、自分らしい撮り方を開発し、それを徹底し、写真の並べ方を考える人ですが、そのうえで、どこかのプロセスであえて既存の選択肢を捨てた人、つまり「あえ」る人といえます。いわば、インスタグラマーが「映え」ならば写真家は「あえ」なのです。
https://popeyemagazine.jp/post-84380/
わたしたち自身の「不幸」への態度をあらわにし、誠実に他者の「不幸」に向き合うことが可能かを問いかけている
https://www.gentosha.jp/article/12118/
クジャクの檻の前で「クジャクが写真の通りにならないね」とか言ったりするわけで、いわばここで、写真は剥製として機能するのです。
https://popeyemagazine.jp/post-101473/
バンプ的天体観測方式
https://www.gentosha.jp/article/13766/
「あなたはなぜ山に登るのか?」と問われた登山家のジョージ・マロリーの名ぜりふ「そこに山があったから(ドヤ顔)」は、一般によく知られていますが、吉田さんの作品は、いわば写真で山を示しながら「そこに山はあるのか?」と問うようなおもしろさがあります。
https://popeyemagazine.jp/post-92319/
つまりこの社会において、ファッション・イメージの手強さを認識しておくことと、ファッションと身体に対する態度のあり方を再考することは、この身体で生きるわたしたちの世界を心地よくする方法となり得る
https://fashionpost.jp/journal/200070
というより、バルトの「プンクトゥム」という概念自体、「感受性エリート」的な能力に立脚しているような気がするのです。
https://popeyemagazine.jp/post-108524/
ジェンダーのグラデーションのあいまいな部分を (まずは) 目に見えるかたちで体現するというヴィジョンと戦略
https://fashionpost.jp/journal/246899
事実かどうかではなく、フェイクであってもその語り口や発信の仕方にわたしたちの関心が翻弄されてしまう
https://www.gentosha.jp/article/13770/
写真は早送りできるものではないし、濃縮された一瞬であるからこそ長く見ることができるのが魅力のひとつです。また、撮影にかかった時間が1/100秒であれば、少なくともそれを人が見る場合には、その100倍は時間をかけて鑑賞されるでしょう。
https://popeyemagazine.jp/post-117934/
悩む出場者が顔に手を当てているので指輪などのアクセサリーに自然と目がいく
https://fashionpost.jp/journal/todays-study/221830
スライスされた世界を真横から見た層のなかに人物や家、木々などが描かれることで、平たい断面図のような抽象絵画がたちまち奥行きを持った具象絵画に見えてくる
https://www.gentosha.jp/article/16535/
「現実に手を突っ込むことができる現代」
https://popeyemagazine.jp/post-127808/
人間の不在を巧妙に仕組まれた造形
https://www.gentosha.jp/article/17609/
「写されなかったひと」や「写されるべき美しさを持たない存在」を否定する邪悪なパワー
https://popeyemagazine.jp/post-139499/
「だって」の用法
https://fashionpost.jp/journal/todays-study/231901
名前は知らないけど顔だけよく見るモデルの次に、知らない人の10年前の旅行写真が出てきたかと思えば、静謐なモノクロ写真が出てきて、最新のファッションシューティング(これは大体動画)が出てきて、その後に、イラストみたいな現代アートが出てきたり、「それってあなたの感想ですよね?」とか言われたり、アイドルが踊ったり、フェルメールのようなオランダ黄金時代の美術がふと出てきたり、そこからしっとりとした釉薬が美しいい器が出てきたり、漫画広告が出て来たかと思えば、輝く焼き肉が食欲をそそったりしますよね。
https://popeyemagazine.jp/post-144173/
つまり、わたしたちが拒否するべきなのは「性それ自体」ではなく「ロール」の押し付けのほうだ、ということなのではないでしょうか。
https://fashionpost.jp/journal/todays-study/264937
作品のなかの「不在の存在」と自分自身を、「わたしたち」という同一の主語で結びつけて語ること
https://www.gentosha.jp/article/12118/
そもそも、カメラというアイテム自体が、ちょっと目玉親父的かわいさがある物体だなとわたしは常々思います。
//ビデオ・アーカイブです。
//@kcua.ac.jpのアカウントのみで視聴可能です。
〜〜準備中〜〜
//聴講生によるコメントのアーカイブです。
〜〜準備中〜〜