Kyoto City University of Arts

Advanced Design Studies

PoolRiver

プールリバー


#3

長谷川新

肉の話

//開催日時:

2018/5/31(木)

13:00-14:30

//開催場所:

中央棟3階 L1講義室

//備考:

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//略歴:

長谷川新
インディペンデント・キュレーター。京都大学総合人間学部卒業。専攻は文化人類学。現在、PARADISE AIR 2017-2018年度ゲストキュレーター。日本写真芸術専門学校講師。
主な企画に「不純物と免疫」(2017-2018年)、「クロニクル、クロニクル!」(2016-2017年)、「パレ・ド・キョート/現実のたてる音」(2015年)、「無人島にて―「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」(2014年)など。


//以下、ご登壇いただく 長谷川新さんに関連するテキストの引用です。
//聴講する学生さんは事前に読んで予習をお願いいたします。

一般的にキュレーターというと特定の美術館に所属して作品の保存や収集、調査研究、展示などを行う人のことを指しますが、インディペンデントキュレーターは、どこかに所属することなく、様々なところで展覧会の企画などをします。
Belong to ME #01|インディペンデントキュレーター・長谷川新 | M.E.A.R.L
私たちはしばしば、なぜ人間には「人格=ペルソナ」というものが備わっているにも関わらず、人間を非人間的に扱うのか、と自問する。まるで人をモノのように!と私たちは怒る。しかしエスポジトによれば、この問いや怒りはそもそもにおいて間違っている。むしろ、人間に人格というものを付与したからこそ、その人格の多寡あるいは有無によって人間をモノへと翻訳する回路が生じているのだ、とエスポジトは喝破する。ここには近代そのものを脱構築する可能性が備わっているように筆者には思われる。
『ZOO』評 | HAPS
「嫌いだけど同時代に存在している」ということを肯定していくことを考えていきたい。
長谷川新と網守将平が「不純物と免疫」で探る展覧会の理想型|美術手帖
ドクメンタは5年毎に行われるイベントで、カッセルの町全体で行われるのが特徴なんですけど、それを目の当たりにしたときに、ヨーロッパの人たちが大切にしている「公共性」って、こういうことなんだろうなと。 口当たりや耳触りの良い言葉としての「公共性」ではなく、そこには確かに「公共性」としての実体と、それに対する誇りがあった。その上で、形式とユーモアどちらも持ち合わせていた。
Belong to ME #01|インディペンデントキュレーター・長谷川新 | M.E.A.R.L
「他者の解像度」をあげる実践
長谷川新×森純平 アートに関わる二人が驚いた、松戸の街の寛容性
同世代の人たちが就活をしているときに、島の人と夜釣りをしながら、エイが釣りの邪魔をしてくることを学んだりしていました。
Belong to ME #01|インディペンデントキュレーター・長谷川新 | M.E.A.R.L
岡山シティミュージアムでは、特別展「スター・ウォーズ展 未来へつづく、創造のビジョン。」が開かれていた。鑑賞ルートの最後にある物販コーナーは、ちょうど岡山空襲展示室と同じフロアにあり、ダース・ベイダーやストームトルーパーといった悪役までもが、様々な「お土産」と化して整列されている。ここでは、ふたつの戦争は対立していない。
分裂するひとつの戦争 長谷川新が見た「否定される酒、肯定される酒─戦時下のくらしの中で」展|美術手帖
個々の作家を空間的にリンクさせながらも自律させ、非単線的でありながらもキュレーターの意志が蒸発しない複数性、その空間的文体。
展覧会が表現する「意識の流れ」。長谷川新が見た「RIVERRUN」展|美術手帖
自分の作品の前後に違う作家の作品があったり、自分の作品だけ見てほしいのに背景に別の作品が見えたりすることによって、必ず偏りが生じます。作家が期待する本来の状態では見せられないかもしれない。しかし、それを言い訳ではなくむしろ鑑賞/創造の条件に変えて、視界に入る他の作品込みで鑑賞する。
対談|長谷川新×田坂博子インヴィジブル再考——映像祭のあとに
多重レイヤー構造化とその同時解析にもかかわらず/それゆえの、物質の偏愛という特徴
「reproduction」をキーワードに彫刻を考える。長谷川新が見た「集団_展示」展|美術手帖
白いカーテンごしに覗き見るふたりの行為にはしっとりとした切実さが発生している。
1% inspiration、99% perspiration | HAPS
僕はキュレーターといっても、美術館やギャラリーなどに属さないインディペンデントのキュレーターなのでこの方面への「自立の技術」みたいなものには深く関心があります。
長谷川新×森純平 アートに関わる二人が驚いた、松戸の街の寛容性
作品とその研究が備えている社会性や公開性の最大化、質の向上を目指すとき、「会期」と「入り口」が前景化する。
台湾近代美術の巨匠・陳澄波の作品が修復後初公開。長谷川新が見た《東台湾臨海道路》|美術手帖
失敗/不完全/不在から始めなければならないという態度の潔さにすぐさま感じてしまう「欺瞞」と距離をとり、余白を設定する
國府理 「水中エンジン」 redux | HAPS
次に進むだけではなく、帰ってこなければならない。さらに、つくる道はかつてあった道とつなげなければならない。「制度批判はもう飽きた」から無視するのではなく、それを所与の条件としたうえで通り過ぎなければならない。問われるべきは、通り過ぎるにあたっての所要時間です。
対談|長谷川新×田坂博子インヴィジブル再考——映像祭のあとに|第10回 恵比寿映像祭(2018)
「見ようとしなければ見えず、聞こうとしなければ聞こえない」作品を配置することの是非は、端的に、そのような条件下にあることを鑑賞者に気付かせる設計の問題にすぎない。
公共空間における展示のあり方。長谷川新が見た中崎透のプロジェクト「シュプールを追いかけて」|美術手帖
線を引く行為がチョークなしでも成立するように、「光のない。」を暗唱する行為もまた、発話内容の意味自体が伝達しなくても成立する。
柳瀬安里 個展 「光のない。」 | HAPS
完成した後になってなおも/ようやく到来するひとつの可能態、「なんであれかまわないもの」。移動性を付与することでアウラ(物質と空間の一致)の喪失に加担する「額縁(オリオール)」を、そして、完成した世界でのあらゆる表現行為の否定において出現した「インスタレーション(ちっぽけな位置移動)」を、制度論ではなく存在論的に、私たちはとらえ直すことができないだろうか。
「額縁」「インスタレーション」をとらえ直す。長谷川新が見た「額装の日本画」展|美術手帖

//ビデオ・アーカイブです。
//@kcua.ac.jpのアカウントのみで視聴可能です。

〜〜準備中〜〜


//聴講生によるコメントのアーカイブです。

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